砧村散歩~「砧」という地名
砧村散歩では、この町の良いところや、砧村の昔のお話などを掲載しています。
今回は「砧」という地名についてです。
砧に長くお住まいの皆さまはご存じのことと思いますが、「砧」とは、布を打つ石(木)、またはその台のことです。
水にさらしながら布を打つことで、布目をつぶして柔らかくし、光沢を出した、と言われています。
布の光沢を出すために、水辺でさらし、川原の石を砧がわりに用いて打つという風習は、もともと中国から朝鮮に伝わり、その後、帰化人たちによって武蔵国へともたらされました。昔の人たちが多摩川や、多摩川に流れ込む小川のほとりで、砧をたたいて布をさらしている光景を想像することができます。
砧で布を打つ音が、「トントン、トントン」と、平和な武蔵野に響いていたのでしょう。
これらのことから、「砧」という地名がつけられたのは、この地方に砧を打って布をさらすという風習が古くから存在したことが大きな要因であると思われます。
「砧」という地名は、明治22年4月1日に施行された「市制・町村制」で初めて現れたもので、それ以前には「砧」という地名はありませんでした。
この「市制・町村制」により、それまでの「大蔵・鎌田・宇奈根・岡本・喜多見」の五村が合併して「砧村」と名付けられたのです。
このときは、まだ「神奈川県北多摩郡砧村」であって、砧村が「東京府」に編入されたのは4年後の明治26年4月1日のことです。
さて、五村が合併してひとつの村になったわけですが、この「砧村」という名は、地域の有識者の方々が相談して決めた、と聞いておりました。
ところが、最近、長島会長が見つけた書籍に、実は「砧村」の名を考え出した人がいる、と書かれているものがあったのです👀
「砧村」という名を考え出したのは、喜多見村の歌人「田中正太郎氏」と、宇奈根村の俳人「小泉鐐蔵(りょうぞう)氏」の二人で、両名がこれを村議会に提案したところ満場一致で可決された、ということなのです😲
「砧村」の名の考案者お二人のうち、「小泉鐐蔵氏」について、心当たりがありました。
先日、長島日出男会長と竹内秀雄監事とご一緒に、宇奈根の小泉様宅を訪問させていただき、まさに「小泉鐐蔵氏」の直系の子孫の方にお目にかかることができ、貴重なお話を伺うことができました。
小泉家は代々お医者様をなさっていて、さらに子どもたちに剣道を教えていたり、俳句をたしなんでいたそうです。
「砧」という地名をつけたことは、すごいことだね!と常々思っていた私たちですが、その「砧」という地名を考えた方のお名前を知り、その子孫の方にお目にかかれるなんて、本当に光栄なことでした✨
日本広しといえども、「砧」は唯一無二の地名なのです。
「砧」という言葉のひびきには文学的な要素があり、古くから歌や俳句に多く詠まれています。
歌人であり俳人であったお二人がつけてくれた「砧村」という地名を、私たちはますます大切に、いとおしく思いながら、これからもこの「砧村」で暮らしていきたいと思います。